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私の発達障害(3)
ここまで私の特性に関して良い面から書かせていただきました。しかしながら、『障害』という言葉通り困難な部分も存在します。今回はそう言った部分に関しても書かせて頂きたいと思っています。
どこまで遡って書けばよいのか分かりませんが、私の持っている一番古い記憶は3歳の時に小児てんかんで救急搬送された際の記憶です。既に30年以上前の記憶ですが、その際の記憶が未だにはっきりしています。
小学生時代は忘れ物をしたり、大事な物を無くしたりということは日常茶飯事でした。中学生時代も周りと馴染めず変わり者として扱われていました。私は人との距離感というものがわかりません。ですので、初めて携帯電話を手に入れ、、メールを使った際に「メールは挨拶と同じで毎日送るべきものだ。」と思って毎日送るように心掛けていたらストーカー扱いを受けて非常に深く傷ついたことがあります。また、私は同学年で唯一の科学部の部員です。同期は居ません。また空気を読まずに騒いでいたので科学部の顧問の先生からゲンコツを頂いていました。今から客観的に見れば変わり者で周囲と馴染めない人間だったと思います。ただ同時にこの中学生時代が後の人生に大きく関係してきます。これはまた別の機会に記述させていただこうと思います。次に高校時代ですが、こちらもやはりあまり友達と呼べる人間が居らず、周囲から浮いた存在ではありました。大学受験の際に結果が気になりすぎて、合否発表日に全ての荷物を玄関に置き忘れて、授業に出席し、周りから「そんなに結果が気になるなら欠席したらいいやん。」と笑われました。忘れ物の酷さと人間関係の難しさは多くありました。
そして、大学時代です。ある意味ADHDの悪い点が一番わかりやすく発露した瞬間かもしれません。私は近畿大学に通っていた時、教員免許取得の為のコースを受講していませんでした。その理由は3年間連続で教員免許取得の為の履修登録を忘れてしまい。履修機会を失ったからでした。もし、履修登録を行っており一度でも履修していれば、卒業後3年以内であれば科目等履修生として理科の教員免許を取得することが出来ていたでしょう。しかしながら、私は在籍中に履修しておりませんでしたので、科目等履修生になることはできませんでした。そういった経緯もあり、大学卒業後は教職の道を諦め就職するために大学院に進学します。大学院卒業後は、就職活動を行いました。就職試験に関しては、東証スタンダードに上場しているような大企業でもSPI等のペーパー試験や適性検査は突破し、支社長面接までは普通にたどり着きます。しかしながら、面接に失敗してしまいました。今思えば、ある意味正直すぎる回答で受け取り方によっては無礼に聞こえてしまったように思います。その後、私は東大阪にある塗料会社で製造員として6ヶ月、研究員として2ヶ月務めました。この会社員生活において初めて、生活困難を自覚します。初めての出社日、緊張しすぎてガムテープの切り方を思い出せなくなるという大失敗をします。普通に考えればありえないですね。他にもやはり人間関係の問題、職場と馴染めない、言葉は悪いですが完全な『ダメ社員』だったと思います。特に問題だったのが、私は動揺してるだけなのですが、相手から見るとむくれている様に見えるそうで、「何を逆切れしてるねん!」と怒られることがありました。私は動揺はしてましたが、決して反抗する気はありませんでした。後で知った話ですが、発達障害の人は表情筋を上手く操れず、表情を誤解されやすいそうです。私らから見るとすぐわかるので、特に意識していないためそういった指摘はその後までわからないままでした。
長くなるので前半はここまでで終えておきます。後半は(4)に記述します。
どこまで遡って書けばよいのか分かりませんが、私の持っている一番古い記憶は3歳の時に小児てんかんで救急搬送された際の記憶です。既に30年以上前の記憶ですが、その際の記憶が未だにはっきりしています。
小学生時代は忘れ物をしたり、大事な物を無くしたりということは日常茶飯事でした。中学生時代も周りと馴染めず変わり者として扱われていました。私は人との距離感というものがわかりません。ですので、初めて携帯電話を手に入れ、、メールを使った際に「メールは挨拶と同じで毎日送るべきものだ。」と思って毎日送るように心掛けていたらストーカー扱いを受けて非常に深く傷ついたことがあります。また、私は同学年で唯一の科学部の部員です。同期は居ません。また空気を読まずに騒いでいたので科学部の顧問の先生からゲンコツを頂いていました。今から客観的に見れば変わり者で周囲と馴染めない人間だったと思います。ただ同時にこの中学生時代が後の人生に大きく関係してきます。これはまた別の機会に記述させていただこうと思います。次に高校時代ですが、こちらもやはりあまり友達と呼べる人間が居らず、周囲から浮いた存在ではありました。大学受験の際に結果が気になりすぎて、合否発表日に全ての荷物を玄関に置き忘れて、授業に出席し、周りから「そんなに結果が気になるなら欠席したらいいやん。」と笑われました。忘れ物の酷さと人間関係の難しさは多くありました。
そして、大学時代です。ある意味ADHDの悪い点が一番わかりやすく発露した瞬間かもしれません。私は近畿大学に通っていた時、教員免許取得の為のコースを受講していませんでした。その理由は3年間連続で教員免許取得の為の履修登録を忘れてしまい。履修機会を失ったからでした。もし、履修登録を行っており一度でも履修していれば、卒業後3年以内であれば科目等履修生として理科の教員免許を取得することが出来ていたでしょう。しかしながら、私は在籍中に履修しておりませんでしたので、科目等履修生になることはできませんでした。そういった経緯もあり、大学卒業後は教職の道を諦め就職するために大学院に進学します。大学院卒業後は、就職活動を行いました。就職試験に関しては、東証スタンダードに上場しているような大企業でもSPI等のペーパー試験や適性検査は突破し、支社長面接までは普通にたどり着きます。しかしながら、面接に失敗してしまいました。今思えば、ある意味正直すぎる回答で受け取り方によっては無礼に聞こえてしまったように思います。その後、私は東大阪にある塗料会社で製造員として6ヶ月、研究員として2ヶ月務めました。この会社員生活において初めて、生活困難を自覚します。初めての出社日、緊張しすぎてガムテープの切り方を思い出せなくなるという大失敗をします。普通に考えればありえないですね。他にもやはり人間関係の問題、職場と馴染めない、言葉は悪いですが完全な『ダメ社員』だったと思います。特に問題だったのが、私は動揺してるだけなのですが、相手から見るとむくれている様に見えるそうで、「何を逆切れしてるねん!」と怒られることがありました。私は動揺はしてましたが、決して反抗する気はありませんでした。後で知った話ですが、発達障害の人は表情筋を上手く操れず、表情を誤解されやすいそうです。私らから見るとすぐわかるので、特に意識していないためそういった指摘はその後までわからないままでした。
長くなるので前半はここまでで終えておきます。後半は(4)に記述します。